当山は平安期の中ごろに創建されたと伝えられています。天喜年間(1053~1056)、炎天続きの旧暦6月、奥州の安倍一族の反乱を鎮定に赴く源頼義とその子、八幡太郎義家のひきいる軍勢が当地で野武士に道を塞がれ激しく戦います。戦況はきわめて悪く、京の石清水八幡宮に向かい戦勝を祈願。ようやく勝利を得ることができました。そこで寺と社を建て寺にはその社の別当を任せたと伝えられています。またその折、村の名を六月、寺の名を源氏の白幡がかったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、気候が炎天続きだったので炎天寺としたといいます。
この六月村の炎天寺という名称はつとに評判になり、江戸時代後期の俳人小林一茶が寺の周辺をよく散策し句を残しました。
武蔵の国竹の塚で詠んだという前書きがある(湯本稀杖本)
などの句は句碑として蛙相撲の銅像や一茶像とともに後の時代に建立されています。